マルコ5章25節-43節
主イエス様は、湖で嵐を静め、ガリラヤ湖東岸の異邦人の地では悪霊に取りつかれた人を解放されました。さて、今日の箇所には、主が再び西岸のユダヤ人の地、おそらくカペナウムの町に戻られたときのことが記されています。
大勢の人々が主の評判を聞いて群衆が押し寄せて来ていますが、主はお働きの範囲を徐々に狭めます。単にご利益を求めてご自身を利用しようとする人々ではなく、弟子たちへの訓練、信仰を持つ者たちへの人格的関わりをなさるのです。
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主の足もとにひれ伏す
すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」(5:22-23)
ヤイロという名の会堂管理者(会堂司)が娘の癒しを求めて主のもとにやって来ました。私たちにとって会堂管理者という存在はあまり馴染みがありませんので、ある学者の解説を見てみましょう。
この人は多分、相当重要な人物であったに相違ない。会堂司は会堂(シナゴグ)の行政的な頭であった。彼は会堂を管理する責任を持つ長老会の議長であった。…そして会堂司はその社会の最も大切な、最も尊敬されている人のひとりであった。しかし、彼の娘が病気になり、彼がイエスのことを思ったとき、何事かがこの人に起こったのである。(ウィリアム・バークレー)
上の解説を書いた聖書学者は、このヤイロという人物に起こった出来事として以下の事柄を上げています。それは、主イエス様に対する偏見を忘れ、自分の立場に対する尊厳や誇りを捨て、周りの人々の目を忘れて主の前にひれ伏したというのです。私たちの主に対する態度も、自分の持っている余計なものを脇に置き、足もとにひれ伏すものとなりますように…。主は、信仰に基づくヤイロの求めに応答され、彼の家に向かって歩み始められます。
全人格的な「すこやかさ」へ
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。(5:25-26)
長血は、慢性の重い婦人病によって常に出血がある状態です。それが十二年も続いているとはどれほど苦痛で不快であったでしょうか。さらに、この病気を持つものは、礼拝儀式に参加したり、人々と自由に交流することが許されていませんでした*1。彼女は治療のために財産を失い、悪い医者にひどい目に遭わされる経験をしていました。
彼女はこっそり主に近づき、着物のふさに触れました。マルコはこのように書き記しています。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。(5:28-30)
癒された女性は驚きと恐れを覚えながらこっそり帰ろうとしたことでしょう。社会的に抹殺されていたこの女性は、公にお礼を言うこともできないし、人々の目にさらされることも避けなければなかったのです。
しかし、主は彼女を呼び出し、彼女がはっきりと信仰を告白することができるように導き、そして、彼女が癒されたことを公になさいました。この時以来、彼女は肉体だけではなく、霊的にも癒されて神様との関係を回復し、社会的にも回復させられて新しい人生を歩み出しました。もう罪責感に苛まれたり、人目から隠れたりする必要はありません。主イエス様の定義される「すこやかさ」とは全人格的なものなのです。私たちも主に近づき、主への信仰を言い表し続けていく中で、そのようなすこやかさへと導かれていきます。
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(5:34)
さて、ヤイロを忘れてはなりません。
おそらく彼は、もどかしい思いで長血の女性の癒しを見ていたことでしょう。そうこうしている内に「お嬢さんはなくなりました」という知らせが届きます。ガックリ肩を落としたであろうヤイロに、主は「恐れないで、ただ信じていなさい。」*2と語られ、十二弟子の中心的存在である三人を連れて彼の家に行かれました。そして、あざける人々の声を振り払い、既に死んでいた娘に対して「タリタ、クミ」(少女よ。あなたに言う。起きなさい)と語りかけ、彼女を蘇生させるのです。
この出来事は、主イエスの公の生涯の中盤に位置しています。上にも記したように、主は少数の者たちへの弟子訓練に集中なさいます。癒しの出来事も「だれにも知らせないようにと、きびしくお命じ」になりました。
主は、この奇跡を口外してはならないと言われた。大衆の喝采には関心を持っておられなかった。主は決然と十字架に向かわなければならなかった。(ウィリアム・マクドナルド)