道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二サムエル8章

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行く先々での勝利

 

ダビデは、宿敵ペリシテ人、モアブ人、アラム人、エドム人などを次々に攻略していきます。その勝利は、主ご自身が彼にお与えになったものでした。

 

主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。(8:6, 14)

 

この時のダビデは、勝利によって高ぶるのではなく、ますます主に従う歩みをします。戦利品として馬を奪うチャンスを得た時も、「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。」(申命記17:16)に従って、わずか百頭だけを取ります。非武装ではありませんが、軍事力“こそ”が解決という当時の常識には沿わない生き方を選んだのです。また、戦利品や貢ぎ物の貴金属は、主に聖別して捧げました(8:11)。このように、主に従い、主との関係を正しく保つことによって、ダビデは行く先々で勝利を得たのです。

 

正しい統治

 

ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。(8:15)


新米国標準訳聖書(NASB)では、「So David reigned over all Israel; and David administered justice and righteousness for all his people.」(ダビデはイスラエルを統治した。すなわちダビデは、正しい裁きと真実とを彼の民に施した。)と訳されています。

 

統治とは、正しい識別・判断をし、神と人とに対して真実な心をもってそれを実行すること。このダビデの統治は、すべてのリーダーシップのモデルです。優柔不断で曖昧な態度でもなく、私利私欲に基づいた独裁的な支配でもなく、正しい統治を行いました。それは神に喜ばれ、民を幸いにするものでした。ダビデ自身が主ご自身によって治められているからこそ、このことを為すことができたのです。

 

そして、このような統治の姿は、やがてこられるメシヤ、主イエス様の姿をも指し示しています。


イザヤ、エレミヤのメシヤ預言にはこうあります。

 

その(メシヤの)主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:7)

 

見よ。その日が来る。 ―主の御告げ― その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝(メシヤ)を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。(エレミヤ23:5)

 

ダビデは、このような統治を独りきりで行ったのではありません。16〜18節を見ると、軍団長、参議、祭司、書記などが任命されていることが分かります*1。神は、私たちが独りぼっちで孤独に働くことを望まれないのです。孤独な働き人には誘惑が入り込みます。神の御心に沿った働きをするために、誰もがチームメイトを必要としています。

 

このみことばを心に留めたいと思います。

 

キリストによって、からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4:16)

 

 

ダビデのように -主の御名によって立ち上がるとき-

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*1:18節で「ダビデの子らは祭司であった」と訳されているが、この祭司は「働き人の長」とも訳せる。レビ族のアロン家系の人物以外が祭司を務めることはできないため、この箇所は、ダビデの子らが何らかのミニストリーのリーダーになっていたと理解するのが良いだろう。