道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き15章

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第一次宣教旅行から戻ったパウロとバルナバの報告を聞き、アンテオケ教会の人々はきっと「送り出した甲斐があった。主よ、感謝します!」と神をほめたたたことでしょう。しかし、一つの問題が起こります。

 

“行いによる救い”を教える異端

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。(15:1)

 

エルサレムから「割礼派」「ユダヤ主義」の人々がやって来て、彼らの主張を伝え始めたのです。割礼とは、神との契約関係を示すしるしとして男性器の包皮を切り取る行為です。しかし、主イエスが十字架において律法の時代を終わらせたため、もはや必要のないものとなっていたはずです。

 

しかも、これはユダヤ人でない異邦人にとっては全く関係のない話なのです。さらに、もっと重要なことは、本来、救いは“恵みにより、信仰を通して”のみもたらされるものです。

 

ところが、異端やカルトは「〜しなければ救われない」という“行いによる救い”教えます。現代においても「伝道活動をしなければ…」とか、「どんなことでも指導者に絶対服従しなければ…」とか、そういった行いを救いの“条件”にするのです。伝道も奉仕も、祈りもディボーションも救いの条件ではありません。それらはもちろん良い行いですが、一方的な恵みによって救われたことへの“応答”なのです。

 

エルサレム会議

さて、パウロとバルバナバは、この問題を解決するためにエルサレムに向かいます。ここで開かれた会議をは「エルサレム会議」と呼ばれます。様々な論争の後、ペテロが立ち上がり、語り始めました。彼は、自分自身が幻を通して異邦人伝道へと導かれた経験(10章参照)に基づいて「異邦人も恵みによって救われる」というメッセージを伝えたのです。

 

「…私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人(異邦人)たちもそうなのです。」(15:11)

 

ペテロのメッセージは確信に満ちた力強いものでした。そして、使徒として彼に委ねられていた神からの権威を教会は認めていました。

 

すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。(15:12)

 

ペテロに続いて、バルナバとパウロが神の力によってなされた異邦人宣教の実りを分かち合います。二人は、エルサレムに向かう途中の町々においても同じような分かち合いをしてきました。私たちも心がけて神の恵みの分かち合いをしたいと思います。せっかく神様から恵みをいただき、守りをいただき、助けをいただいている事実を自分の心の中だけにととめず、シェアするのです。

 

二人の話を聞いた後、主イエスの弟ヤコブが語り始めます。それは、「旧約聖書においても異邦人の救いが預言されている」という内容でした。この会議の結論は「異邦人に割礼を強要してはならない」というものですが、これが聖書の預言にしっかりと基づいて導き出されていることに注目しましょう。と同時に、ヤコブは具体的な適用の方法については「私の判断では〜だと思います」と断言を避け、提案という形をとっています。これは非常にバランスの良い態度です。

 

私たちは時に、聖書がはっきり語っていることを曖昧にし、単なる自分の意見や願望を断言してしまうことがあるのではないでしょうか。聖書の教えを一歩も譲らず明確に語り、自分の意見については控えめに語って融通の効く柔軟な態度を持つ…そんな在り方を目指したいと思います。あくまで「聖書>自分の意見」なのです。

 

会議の結果の通達

この後、エルサレム教会は使徒たちと長老たちを選出し、アンテオケへと送ることを決議します。リーダーシップや意思決定の方法が非常に秩序だっているのが分かります。使節団に託された手紙にはこう書かれていました。

 

「兄弟である使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつをいたします。私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。…聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」(15:23-29)

 

まず、割礼派の人々については、何の指示も受けていないのに勝手なことを言って人々を動揺させ、心を乱したという評価を下しています。そして、「聖霊と私たち」が決定を下したと書かれています。つまり、教会会議において正式に決定されたことを、彼らが、神ご自身の決断であると考えていたことが分かります。

 

現代の教会においてもこの態度は重要です。教会が物事を決するとき、いつも聖霊の導きを求めて心からの祈りがなされるべきです。教会の会議は人間的な業ではないです。そして、成熟したクリスチャンは会議において仮に自分の個人的異見と異なった結論が出ても、それを神の導き出された結果ととらえ、教会の公の決定や判断を尊重し、それを支持する態度を選ぶのです。

 

エルサレム会議で決議された内容は、異邦人クリスチャンに余計な重荷(割礼の義務)を負わせないことです。しかし、ユダヤ人クリスチャンに不必要なつまづきを与えないため、異邦人にも以下の行為を避けるようにという勧めがなされました。それは、偶像への供え物を食べる行為、血を飲んだり、血の入ったままの肉を食べたり、性的不品行やそれを疑われるような行為です。これらはみな、ユダヤ的背景で育った人々をギョッとさせ、激しい抵抗を覚えさせる行為だからです。

 

この手紙が届けられ、アンテオケ教会に平安がもたらされました。また、この会議の結論は、各地の教会に対しても基準となっていきました。

 

パウロとバルナバの対立

ところが、この後、パウロとバルナバは第二次宣教旅行にヨハネ・マルコを同行させるか否かで決裂します。パウロは前回の旅を途中で離脱したような者は置いていくべきと考えましたが、バルナバは連れて行こう考えます。

 

結局、ふた手に別れて行動することになりますが、それでも神様は双方のチームを憐れみ深く導き、用いてくださいます。