主との親しい交わり
チャールズ・スウィンドル著『全能の主との親しい交わり』は、93頁の小さな良書です。私はこれをだいたい年に一度、取り出してじっくり考えながら読みます。なかなか手に入りにくくなっているように思いますが、現在、Amazonで何冊か中古が手に入りそうですね。
「自分ははたして深みのある者だろうか。」こう自問すると、あなたの正直な答えはどんなものでしょうか。しばらく立ち止まって考えてみてください。
自分が望むほどの深みはないと感じるかもしれません。でも、そうなりたいとの願いはあると思います。そうでなければ、そもそもこの本を読んでみようとは思われなかったはずです。おそらく表面的なことにはもう飽き飽きしているのでしょう。中身のないことばや軽薄な世間話にはうんざりなのでしょう。決してこんなものだけではないはずだとわかってはいても、どうしたらそれを超えたところにたどり着けるかがわからないのではないでしょうか。でも、一つだけはっきりしていることがあると思います。それは今のままではいたくないということ。
そこから始めればよいのです。浅薄なものに飽き足らなくならない限り、だれも深みに漕ぎ出そうとはしません。私の想像が間違っていなければ、あなたが求めているものは、全能の主との親しい交わりではないでしょうか。主の生き生きとした臨在のうちに、できるか限り深く主と結びつき、御思いを思い巡らすこと、そして主の知恵をいただいて、できるかぎり主のこころに近く生き、みこころの真ん中を歩む生活をすることを願っておられるのではないでしょうか。私自身も、まさしくそのことを求めているのです。
(『全能の主との親しい交わり』より)
「生きることに悩み苦しみ疲れ果てる時、私たちは静まり、ありのままの自分を出せるところを、リフレッシュされる場所を探し求めます。たましいが神と結びついて生き返ることを、すべて神にまかせ、新しい力を得ていき続けることを切に願います。しかし私たちは、神が待っておられるところ・神を見いだせるところ、すなわち、神のことばである御子のうちに神を求めることをしません。私たちは別の場所に神を探します。それは、私たちがあまりにも多くのことを神に願い求め、それが与えられないと生きていけないと考えてしまうからです。それで私たちは、多くの問題をもって神に迫り、知識や手がかりを与えてくれと要求し、楽な道に導いてほしいと願います。しかし、私たちは忘れているのです。人生のあらゆることに対する解決や生きるために必要なことはみな、神がすでにみことばのうちに与えてくださっていることを。私たちは神が語っておられる場所で聴こうとしません。あらゆる時代の人々に十分な神のことば・尽きることのない神のことばがこの世界でひとたび響きわたった場所で聴かないのです。私たちはこう思っているのかもしれませんーーーこんなに長い間聴いてきたから、神のことばはもうほとんど使いきってしまった。今は別の新しいことばが必要な時代になった、だからそれを要求する権利があるのだ、と。私たちは見落としています。実は、消耗して縁遠くなってしまったのは私たちのほうで、みことばは常に変わらず、同じ力を持って生き生きと語り続けているのです。神のことばは、いつの時代もそうであったように、今も私たちのすぐそばにあります。」
(『全能の主との親しい交わり』、イエズス会のハンス・ウルス・フォン・バルタサルの言葉の引用より)
主との交わりはどうしたら深まるだろうか。これは、よく質問される問いであり、自分自身の中でもずーっと続いている問いでもあり、生涯たずね求め続けていくものなのだと思っています。このブログの更新が、ずいぶんと滞っていたことからもお察しいただけるかもしれませんが、かなり慌ただしい日々を送っていました。急いでいると深まりません…。焦っていると表面的になります…。いかん、いかん。
勇気をもって生活のペースを少し落とすか、敢えて何かを削るなりキャンセルするなりするかして、とにかくなんらかの方法で一旦、ほんのしばしの時であっても、生活の中に「スペース」を作る…。できれば、短い時間でも良いのでそれを「日々の営み」に組み込む…。
そして、聖歌、讃美歌にあるように「ああ恵み!はかりしれぬ恵み!ああ恵み!われにさえおよべり」と、与えられるはずのなかった驚くべき恵みを覚えながら、静かに御言葉の前に座る時を持つ…。これが良いと思っています。大祭司主イエスによって私たちが近づくことを許されている御座は、「恵みの御座」なので、「学ばなきゃ!」とか「しっかりとこれ(いわゆる“ディボーション”なるもの)を成し遂げなければ!」とかいう気負いを持たずに…。
その恵みの御座の前で御言葉を読み、考え、心に御言葉を携えて祈る…。祈るのは場合によっては歩きながらでもいい。遊びながらだって、食べながらだっていいさね。
その一つ一つの営みの中で「ああ恵み!もったない恵み!」と思い起こす。「ああ恵み!主よ、あなたにこうして話しかけることとができるなんて、なんとうい恵みでしょうか!」。そのような交わりを持つ中で、さらに「ああ恵み!」という思いはさらに深められていくのだと思います。
「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」(2ペテロ1:2)
神がわたしたちとの親交を欲しておられるということのすばらしさを、いま多くの人は感じとれなくなっているのではないだろうか。そういう人たちは、神が愛であることを、あたりまえのことと思っているので、そうなるのではないだろうか。彼らは、聖なる神と罪深い人間の和解ということが「この世で最も妥当なこと」とはいえない事実を、思ってみたこともないのだ。(P10)
多くのクリスチャンがなぜ祈りにむなしさを感じ、祈りを活気に満ちたものにすることができずにいるかといえば、それはみんな、自分にとり十字架が、どんなに意味深いものであるかを本気に考えたことがないからであるにちがいない。…いま、ここでは、思いを神にむけることが大切である。とくにキリストのかずかずの魅力やその栄光に。さらには、あなたを、ご自身のみ側近くにまねき、愛し、深く思いを寄せ、みことばをお語りくださる、そのみ姿に。最後には、彼が十字架につけられ、あなたのために死のうとしておられる、そのみ姿にも、目をとめなくてはならない。そうすればすぐさまあなたにも、彼が道であること、その道を通って、あなたも大胆に神の聖なるご臨在にふれ、神との親交を結ぶさいわいを味わえることが、わかるであろう。(P11-12)
(『静思の時』より)
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