逃亡経験を経て「役に立つ人」に…
今日の箇所には、マルコの福音書だけが記録している出来事があります。
ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14:51-52)
なぜこのようなエピソードがわざわざ記録されているのでしょうか。この「ある青年」が誰であるが、確実なことは分かりませんが、福音書の著者マルコ自身であると多くの学者たちは考えています。
マルコは、実際に最後の晩餐に出ていたのかも知れない。彼は若く、まだ少年であった。そして本当に誰も彼に気づかなかったのであろう。しかし、彼はイエスにひきつけられていた。そして、一団の人々が暗がりの中に出て行ったとき、彼は寝床にいるはずの時間であったが、彼らの後を追って、裸のからだをただ亜麻布でまとったままで抜け出した。多分、マルコはずっと物陰にかくれて聞き、また見ていたのであろう。事実それが一つの事を説明するだろう。どこからゲツセマネの物語が出ているのか。もし、弟子たちがみな眠っていたなら、イエスがそこで経験された魂の苦闘について、誰が、どうして知ることができたのか。マルコにほかならないひとりの目撃者が、少年のかつね見たことのないような尊敬する偉大な英雄を見ながら、物陰に静かに立っていたのであろう。(ウィリアム・バークレー)
彼はやがて初代教会の時代において、パウロの伝道旅行に同行しましたが何らかの事情で途中で帰ってしまいます。そのときは裸に亜麻布ではなかったと思いますが、これも一種の逃亡経験です。
パウロは「マルコはけしからん!」と考えて次の伝道旅行には連れて行かないことにします。ところが、慰めの子として知られるバルナバは「そんなことを言わずに連れて行きましょう」と主張したので、パウロとバルナバの関係は一時的に決裂してしまいます。
そんな火種まで作ってしまったマルコですが、彼はその後、ペテロがの回顧を聞きながらマルコの福音書を書き記すという重大な働きを成し遂げました。また、パウロからもこのように評価されるようになりました。
マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(2テモテ4:11)
私たちも彼と同じように「逃亡経験」を持っているかもしれません。陰から見ているだけで何もできなかったり、みっともない姿で逃げ出したり、何かを途中で挫折をしたり…。
しかし、主イエス様の十字架は、そのような私たちに罪の赦しを得させ、新しい生き方で再出発できるように導いてくれます。
(主は)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(1ペテロ2:24-25)
マタイの並行箇所の解説①、解説②参考にしてください。
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