牧師をはじめとする教会のリーダーたちは、アメリカや韓国、また、日本のどこかに存在する「モデル教会」について見聞きし、その影響を受けることがあります。私自身も経験したことですが、それらのモデル教会を見て「素晴らしい!」と思い、思わずその方法やスタイルを真似をしたくなるのです。確かに大いに参考になることがあるでしょう。しかし、そこには落とし穴もあります。
たとえば、それぞれの教会が置かれている文脈を無視してしまう可能性がありますし、それぞれのリーダーに与えられている個性、賜物の違いを見落としてしまう可能性もあります。そして、何より、私たちの最高の基準である聖書が教会について何を教えているかを見過ごしてしまうこと危険があるのです。
教会の再生(活性化)を願うリーダーは、まず教会とその牧会について聖書に基づく確信を得ることに務めなければななりません。そもそも、一体、教会とは何でしょうか。
教会とは、ある人にとっては「建造物」です。ある場合は、ルーテル教会、改革派教会、メソジスト、バプテストなどの「教派」を意味しますし、礼拝などの「集会」を指して教会と呼ぶこともあります。そして、◯◯市にある◯◯バプテスト教会といった「特定の群れ」を指す場合もあります。一体、教会の本質とはどのようなものでしょうか。
ここで詳しく述べることはしませんが、普遍的な教会と地域教会の区別について理解をすることも大切です*1あなたにとって、教会とは何でしょうか?
・教会とは何か?
・教会の頭とは誰か?
・教会が最も目指すべきことは何か?
・教会において何が権威を持つか?
・教会のメンバーには誰が含まれ、誰が含まれないか?
・教会のリーダーシップはどのような人々が担うべきか?
・教会のリーダーは何をすべきか?
・教会の意思決定はどのようになされるべきか?
・教会の主要な働きは何か?
・教会の働きは誰がどのように行うべきか?
・教会の働きはどこでなされるべきか?
・教会はどのような財政を行うべきか?
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・
ここに挙げたもの以外にも大切な問いがあると思いますが、要するに教会というものに関する基本的な考えをしっかりと整理することが大切です。
これらの問いについて立ち止まって考えてみると、自分自身が「これまでの自分の常識」「キリスト教界の慣習」などに基づく“答え”しか持っていないことに気づく方もおられるかもしれません。
教会再生(再活性化)を願うリーダーは特に、これらの問いに対して聖書に基づき、自分の言葉で明確に答えることができる必要があります。
変化を起こし、それを主導しようとするリーダーは、その変化がどのような根拠に基づくものであり、何を目指しているのかをしっかりと説明することができなければならないのです。そのためにもぜひ、「教会(形成)」について詳しく記されているエペソ書、コロサイ書をどのように理解するか、「牧会」について直接的に記されている「牧会書簡」をどう理解するかなどはとても大切です。また、牧会について書かれている良書にしっかりと目を通し、「牧師とは?」「信徒とは?」といった理解を整理し、「牧会理念」としてまとめ上げる必要があります。
そのためには時間が必要です。
はっきり言って、かな〜〜り必要です。
ですから、教会全体に対して声高らかに「ウチの教会は変わりま〜す!」と宣言する前に、まず、じ〜〜〜っくと学び、考え、祈りと共に確信を深めていくことが求められます。
もちろん、教会再生の途上においても、取り組みを進めながら徐々に理解が深められたり、軌道修正がなされたりはします。しかし、変化を起こそうとする最初の時点で最低限、その基礎となる聖書的、神学的確信を整理して明文化しておきたいと思います。
ところが、残念ながらそれをせずにあまりに性急に変化を求め、結果として何らかの壁に阻まれ、それを打ち破るだけの力(確信)を持たないために早々に断念してしまうケースが後を絶たないのです。
多くの教会でこんな ↓ すれ違いが起こっています。
牧師 「今後、ウチの教会に◯◯◯を導入します!」
信徒「先生、どうしてそれをするのですか?」
牧師「だって、そうした方がきっと…」
信徒「でも、ウチの教会では何十年もこうやって来たし、みんな今までのやり方に慣れ親しんでいるんですよ?それをわざわざ変える必要があるんですか?」
牧師「でも、他の教会でもうまくいっているらしいし…」
信徒「他所は他所、ウチはウチじゃないですかね?」
牧師「尊敬する◯◯先生も〜〜とおっしゃっていたし、この前参加した△△△セミナーでは☓☓☓を導入するとイイって教えられていたし…」
信徒 「予算的にも厳しいし、無理じゃないですかね?」
牧師 「いや、信仰をもってやれば大丈夫!必要は満たされます!」
信徒 「いや、そういうことじゃなくて…(心の声:ああ、この先生に話しても無駄だ)」
牧師 「(心の声:ああ、この信徒は不信仰だ。偏屈で何も分かってくれない)」
このような ↑ やりとりが度々なされているうちに、教会はより「変化しにくい土壌」になっていきます。「しっかりと変えていく準備ができるまでは、ヘンに変えない方が良い」のです。まずは、教会に変化を起こそうとするリーダー自身が先に変化すべきです。
教会、牧会についての聖書的確信を得るため、参考までに過去記事のリンクを掲載しておきます。
mentoringservant.hatenablog.com
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mentoringservant.hatenablog.com
mentoringservant.hatenablog.com
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私が目を通した参考書の一部を挙げておきます。(挙げている書物に記されている著者の見解に全て賛成しているわけではありません。念のため。)
What Is a Healthy Church? (9Marks)
- 作者: Mark Dever
- 出版社/メーカー: Crossway Books
- 発売日: 2007/06/19
- メディア: ハードカバー
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Total Church: A Radical Reshaping around Gospel and Community (Re: Lit Books) (English Edition)
- 作者: Tim Chester,Steve Timmis
- 出版社/メーカー: Crossway
- 発売日: 2013/07/15
- メディア: Kindle版
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A Study Guide to: Biblical Eldership An Urgent Call to Restore Biblical Church Leadership
- 作者: Alexander Strauch
- 発売日: 1991
- メディア: ペーパーバック
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- 作者: ウィリアムウィリモン,William H. Willimon,越川弘英,坂本清音
- 出版社/メーカー: 新教出版社
- 発売日: 2007/12
- メディア: 単行本
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※日本聖書学院の岡田大輔氏による講演動画、シリーズで視聴することができます。
*1:国や文化や時代を越えて、遍(あまね)く存在する「普遍教会」それは、主ご自身がお建てになると言われた「教会」(マタイ16:18)であり、パウロが迫害した「教会」(1コリ15:9)であり、主が愛をもってご自身を捧げられた「教会」(エフェソ5:25)でもあります。ここには、聖霊によって新しく生まれ、罪を悔い改めて信仰を告白した真のクリスチャンが全て含まれます。その中にはたとえば、迫害下で家々に集まっている共産圏のクリスチャンたちがいます。ポストキリスト教的、無神論的な価値観が支配的な欧米の都市圏で、懸命に証しするクリスチャンもいます。彼らと私たちは、キリストを頭とする一つの教会を構成しています。この普遍教会は、ペンテコステから主が再び来られる日に至るまで歴史さえも越えて存在していますので、既に地上での務めを終えたキリストにある信仰の先輩たち(たとえば、アウグスティヌス、ルター、スポルジョン、◯年前に召された◯◯教会の◯◯兄)も含まれますし、これからキリストに導かれる人々も含まれます。この普遍的教会は、キリストのからだであり、その頭(かしら)は言うまでもなくキリストです。海外の教会を訪ねたり、海外からのお客さんを迎えたりすると、初対面なのに「ああ、家族だ!」と不思議な感動を覚えることがあります。これはこの「ひとつの教会」に連なっている恵みの具体的な現れです。
地域教会(local churches)は、 地区教会、個別教会、各個教会などとも呼ばれますが、特定の地域において集められている信徒たちの群れを指します。例えば、エルサレム教会(使徒8:1, 11:22)、アンテオケ教会(使徒13:1)、エペソ教会(使徒20:17)など、他にも聖書に多く登場します。私たちが普段「ウチの教会」と言うときには大抵この地域教会を指しています。大きな町には複数の地域教会がある場合もあります。地域教会は普遍教会の下部組織や支部ではなく、それぞれが独立し、自治権を有し、それぞれに同じキリストが臨在され、同じ神の言葉が託されています。
ただし、何をもって地域教会と見なすのか、伝道所、集会所、家庭集会と呼ばれるものをどう見るべきなのか、聖書は厳密には教えていません。ある人々はマタイ18:20をもって、信者が2〜3人で集まったら「それはどこでもいつでも教会になる」のだと主張します。しかし、上記の箇所は文脈的に教会の定義を教えるものではありませんし、新約聖書が地域教会について記す場合、それは、ある程度の規模があり、一定のリーダーシップや秩序が機能している群れを指しているようです。
私は、普遍教会を重視しつつも、それが地域教会を通して具体的に現れることを極めて重要であると考えます。地域教会こそが宣教の最前線であり、地域教会がキリストの命に溢れることを通して、神ご自身の栄光が現れると信じています。教派的な活動、あるいは超教派的な活動(パラチャーチ含む)は、地域教会のエネルギーを吸い取るようなものではなく、それぞれの地域教会を励まし、力づけるようなものでなければならないのです。
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